Deep Breath

Anything Goes

理論だけでは足りない

前にfacebookでこんな投稿した。

大学受験生をしている時に、この大学に入るためにはこの参考書をやってこういう解法を身につければ良いというのがあって、それに頼ることで自分の成績を上げっていった。そういう経験もあって、自分の中で何か問題を解くとき時はまずハウツーを身につけ、そしてそれに当てはめる形で物事を対処していくようにしていった。実際に、大学に入学したばかりの頃というのは、どのように人のアイデアをまとめていくか、計画を立ていくかというのも受験生時代同様に理論だけに頼ってシステマティックにやり、細かい部分は省こうとした。最近、思うのがこういうやり方だと次の三つの問題が出てくるということである。

理論重視の問題点(目次)
1.理論を理解できないで終わる
2.理論でしか対応できない点に見えなくなる。
3.そもそもやる気がわかない


1.理論を理解したりそれを活かしたりすることができないで終わる
上記のfacebookの投稿にもあるように、安宅さんは「イシューからはじめよ」の中で、「食べたことがない料理の味はわからない」と言っているように、それが使う状況で試行錯誤している中で理論は初めて役に立つ。だから、何も経験していない状態で理論を武器に問題を解決しようとしても、いつどのように使えるのかがわかない。むろん、そのはず理論というのは経験に裏付けられるからである。次の図を見て欲しい。

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これは演繹と帰納の関係をわかりやすく表した図である。ここでいうgeneral principalは理論を、inductionは帰納、deductionは演繹を表す。見てわかると思うが、genral principalというのは、specifi instances=個別のケースを観察することで帰納的に作られていくのである。だから理論の理解には、個別のイベント=経験が不可欠だと言えるであろう。


2.理論でしか対応できない点に見えなくなる
次に理論に関して指摘したい点としては、理論はあくまで現実の一側面を切り取ったパースペクティブでしかないということである。

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少し切れてしまっているが、これは著名な科学哲学者トーマス・クーンの「科学革命の構造」で紹介されているパラダイム論を図式化したものである。専門用語が並び少し難しくなっているが、このブログにわかりやすく書いているので読んでもらえればと思う。

パラダイムとかクーン『科学革命の構造』を5分間で説明する+オマケ 読書猿Classic: between / beyond readers
このブログを読むのも面倒な人向けにかなりかいつまんで説明すると、科学という学問において真と信じられていた理論は、時間が経つにつれて社会の仕組みを解き明かす上では問題があることに人々が気づき、新しい理論というものが作られるという流れが永遠に続くのが科学というのだ。例えば、長い間天動説が信じられていたが、ガリレオの研究により地動説が発見されその考えが一新されたのがそうだ。これをクーンはパラダイムシフトという。閑話休題。クーンのパラダイム論の説明を通じて私が言わんとしていたのは、我々がこれは世界の真であると思って見ている世界というのは、間違っている場合もあるし、世界の一部分でしかないかもしれないということである。だから、理論という一つの見方に頼り切ってすべての問題を解決できるというのは傲慢でしかない。

 

3.そもそもやる気がわかない
最後に、この主張は個人的な経験に裏付けられるものであるが、やはりやったことないことに関連したことをやってもつまらないというのは仕方がないような気がする。20世紀を代表する教育哲学者は次のように指摘する。

生徒は科学的教材に引き合わされるべきであり、その教材のもつ事実と法則が、日常の社会生活になじんだかたちで応用されるよう、その手ほどきがなされなければならない。このことこそ、健全な教育的原理というものである。この方法を遵守することは、科学それ自体を理解するうえでの最も直接的な方途であるばかりではなく、生徒たちが成熟するにつれて、現存する社会の経済的、産業的な諸問題を理解するうえで、最も確かな方途である。(ジョン・デューイ「経験と教育」) 

 デューイは、教育のあるべき姿として教科書中心や教師から一方的に何かを教わる教育ではなく、より生徒の経験に根ざした生活経験から出発する教育を目指すべきだと指摘している。というのも、このような経験主義的学習方法の方が、学習者の解放(自由に学ぶことができる)、主体的な学習態度の形成、学ぶことの意味を獲得させるそう。僕の経験としてもやはり、自分の経験から生まれた問いに基づいて学びを追求していくことがすごく楽しいし、そういう方法で学んでいる時が一番理解が深まる。というわけで、理論は大事であるが、それだけを学ぶよりかは、きちんと経験的に必要と感じてから学ぶ方が良さそうだと思うのである。


さてさてこんなことを書いていると、以前、大学の自主ゼミで宮本常一が、社会科学に関わる研究者(特にエスノグラフィー)が調査をする時のあるべき姿として御著「民族学の旅」で次のように言っていたのを思い出します。

屋久島の年寄りたちの話は語り物を聞いているような感じのするものが多かったが、今『屋久島民俗誌』を読みかえしてみると、私はそれをすっかり散文にし箇条書きにし、また聞いた話を私なりに分解してしまい、ことばそのものの持っていたひびきのようなものは洗いおとしてしまっているのである。そこに住む人たちの本当の姿を物語るのは話の筋――つまり事柄そのものではなくて事柄を包んでいる情感であると思うが、そのような形で聞き取りを整理したものはほとんどない。物を調べ、それを文字で再現することがどんなにむずかしいことか。しかしその頃は情感的なものを洗いおとして鹿爪らしく散文的に書くことが学問として価値あるように思ったのである。(『民俗学の旅』講談社学術文庫:p.109)

理論のような言葉で書かれた時点で多くの時点で経験によってもたらされる感性的な部分が大きく抜け落ちてしまう。僕は、理論が悪いと言っているのではなくて、理論は理論で必要だけど、やっぱりそれを裏付ける個別のケースも理解する上で大事だよねということが言いたいのだ。だからこそ、人を対象とする時は理論だけではなく、やっぱり実際に経験で事象を学び、そこから理論を理解していくことがあるのでないだろうか。